見出し画像

roomxみどころ⑤ 福澤研究センターより、乳母車(福澤諭吉アメリカ土産)

日本近代化に尽力し、慶應義塾の創立者としても知られる福澤諭吉ですが、慶應義塾福澤研究センターからは今回、福澤諭吉がアメリカ土産として持ち帰った「乳母車」をご紹介します。全体をスキャンすることで3Dモデル化もされておりますので、さまざまな角度から、歴史ある「乳母車」をご鑑賞いただけます。

慶應義塾福澤研究センターとは

慶應義塾福沢研究センターは、福沢諭吉やその門下生、福沢の創立した慶應義塾及びその出身者・関係者の事績について幅広く資料収集・調査研究を行い、さらには福沢や義塾を視野に置きつつ、広く近代日本の研究を目的として設置されています。ですから学校史の編纂所・資料室の機能を備えつつ、役割はそれにとどまりません。
その目的を達成するために、当センターは慶應義塾内の諸学部・一貫教育校(小中高などの諸学校)の枠を越えた全塾的な共同研究機関と位置づけられ、義塾外の研究者とも隔てなく連携しながら活動しています。
研究・収蔵のための主な施設は、慶應義塾の象徴ともいえる三田キャンパス内の慶應義塾図書館旧館(重要文化財)に置かれています。
出所: http://www.fmc.keio.ac.jp/about/


乳母車(福澤諭吉アメリカ土産)について

慶応3年(1867)アメリカを再訪した福沢が子供たちへの土産としてニューヨークから持ち帰った乳母車。洋学者仲間が次々と暗殺され、福沢も命を脅かされた幕末の攘夷の嵐の中で、子供のためにこれを持ち帰るという着想そのものが奇抜で新しく、また時代に抗する行為であった。初期の門下生の草郷清四郎は「私共は〔福沢の〕令息等をこれに乗せて何度か芝神明辺を輓き歩きました」と語っている。一般的には和泉要助、高山幸助、鈴木徳次郎の3人が人力車を造ったとされるが、福沢晩年の記憶では芝金杉の内田勘左衛門が福沢家に親しく出入りし、これを福澤から借り、構造を研究して人力車の構造が考案されたという。(人力車の発明には諸説ある)。


みどころ

3Dスキャニングを数多く手がけるテックストレーキ株式会社様にご協力いただき、本展覧会のために乳母車をスキャンし、3Dモデルを作成しました。本物の乳母車はかなり大きく、重量もあるのですが、この3Dモデルはひっくり返したり回したり、自由に観察することができます。以下のリンクより、ぜひ色々と"触って"みてください。


さらに詳しく知りたい方は

福澤の乳母車は「人力車」のモデルになったという説があります。以前そのことについてごく短文ですが書いたことがあります(都倉 武之/福澤研究センター准教授)

また、福澤研究センターが出品している他作品もご覧になりたい方は、展覧会の福澤研究センターセクション「福澤諭吉、ウェーランド経済書講述の日」へ、ぜひお越しください。

慶応4年5月15日、西暦1868年7月4日土曜日。この日、上野の寛永寺境内で、旧幕府方の彰義隊と新政府軍の間で激しい戦闘が起こり、本郷付近からはアームストロング砲などの砲撃が加えられ、その轟音は江戸中に鳴り響いた。その混乱の中、芝新銭座の慶應義塾では、時間割通りに土曜日午前の授業として、福澤諭吉が、フランシス・ウェーランドの経済学教科書を手に、塾生たちに平常通り授業を行った――。この故事は、日本に蘭学が始まって以来、脈々と続いてきた日本における洋学の伝統が途絶えようとしていたこの日、慶應義塾が洋学の灯を後世へと繋いだ逸話として、今日でも語り継がれている。果たしてこの逸話はどのような語られ、どのような意味を与えられてきたのか。コロナ危機を経験し、学問の意味が問われる今、改めて慶應義塾の精神的な原点であるこの逸話を深めてみよう。


みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!