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トーク・イベントレポ 「泉鏡花とたそがれの味Ⅰ:鏡花とうさぎと三田の文人たちと」

はじめに

2月9日に閉幕した「新春展2023 うさぎの潜む空き地 特別企画 鏡花のお気に入りたち」の関連イベントとして、2月4日に慶應義塾大学三田キャンパス G-Lab(東館6階)にて開催されたトーク・イベント「泉鏡花とたそがれの味Ⅰ:鏡花とうさぎと三田の文人たちと」についてレポートします💁🏻‍♀️


登壇者

穴倉玉日
泉鏡花記念館学芸員。共編著に『別冊太陽 泉鏡花 美と幻想の魔術師』(平凡社)、『論集 泉鏡花』(和泉書院)、『怪異を読む・書く』(国書刊行会)などがある。また近年は、鏡花作品を原作とする『絵本 化鳥』(国書刊行会)や『榲桲に目鼻のつく話』(エディシオン・トレヴィル)などの画本制作を企画、鏡花作品の幅広い年齢層への普及に取り組んでいる。

ピーター・バナード
慶應義塾大学文学部助教。専門は日本近代文学、比較幻想文学論。近代英米文学と日本近代文学における「田舎ゴシック」言説を研究対象として、泉鏡花やM・R・ジェイムズ、H・P・ラヴクラフトについて研究している。『絵本 化鳥』の英訳を担当。慶應義塾の鏡花研究を担う。

本間友
ミュージアム・コモンズ専任講師。慶應義塾大学アート・センターにて展覧会の企画、アーカイヴの運営、地域連携プロジェクトの立案を行い、2018年よりミュージアム・コモンズの立ち上げに関わる。目下、造形美術における「境界」表現について、また学術情報の文化イベントを通じたディストリビューションに焦点を当てた研究を行っている。


鏡花との出会い

まずはじめに、穴倉さんとバナードさんのお二人から、泉鏡花との出会いについてお話しいただきました。

バナードさんは大学の留学プログラムで金沢に来るまで、鏡花を知らなかったそうで、ホームステイ先の方に泉鏡花を勧められたのがきっかけだそう。
帰国後翻訳版を読んで、「人生が変わった」とおっしゃっていました。

一方穴倉さんは幼稚園生の時に、篠田正浩監督、坂東玉三郎主演の映画『夜叉ヶ池』をお母様と観たのが「ファースト鏡花」だったそう。その後、高校に入学後、鏡花を深く読むようになったそうです。
何かのきっかけでたまたま出会い、人生が変わってしまうほど深く嵌まり込んでしまうのが「鏡花の面白いとこ」だとおっしゃっていました。

私は今回のこの展示が鏡花との運命的な出会いになったかもしれません💭

鏡花と慶應義塾

続いて泉鏡花の展覧会を開くと、「なぜ慶應に鏡花の資料があるのか」と聞かれることがあるという本間さんのお話から、本トーク・イベントのテーマの一つである鏡花と慶應義塾の関係についてお話いただきました。

まず穴倉さんから、鏡花を囲み、慕った人々として水上瀧太郎とその友人小泉信三についてのお話が上がりました。
鏡花が亡くなり、周囲の人々から、自筆原稿を含む鏡花の遺品を永久的に保存すべきとの考えが立ち上がっていた第二次世界大戦開戦直後、鏡花を師と仰いだ水上瀧太郎と旧知の仲であり、当時の塾長であった小泉信三が、鏡花の後を追うようにして亡くなった瀧太郎の想いを汲んで、遺品を引き受けることとなったそう。

戦時の不安定な中、遺品を受け入れられたのは奇跡的なことであったと本間さん。
身の回りにあったものが寄贈されたことで、鏡花の仕事だけでなく、人間関係や書斎、さらに鏡花自身までもが残されたとおっしゃっていました。

鏡花が30年暮らし、終の住処となった借家が戦火に焼かれたことを思うと、慶應に移された蔵書も一部被害を受けたものの、今も遺品の数々を目にすることができることに、鏡花と慶應の不思議な縁を感じます💭

バナードさんは、生前の鏡花と慶應義塾の繋がりについて、永井荷風を中心としてお話しくださいました。
鏡花と慶應の最初の接点を生んだのは、当時慶應義塾文学科の教授に就任したばかりの永井荷風だったそう。荷風は「三田文学」の初代編集長も務めており、鏡花の「三味線堀」を掲載したのがすべての始まりだったそうです。

先に挙げた水上瀧太郎は当時学生で、鏡花の愛読者の一人であり、永井荷風の教え子でもあったということで、荷風は鏡花と慶應のつながりを生んだだけでなく、その後鏡花を支える瀧太郎を育てたという面でも重要な役割を果たしていたと穴倉さんは語ります。

鏡花会と九九九会

続いて鏡花を取り巻く人々についてお話が及びました。鏡花会とは明治40年代にできた鏡花のファンクラブのようなもので、愛読者たちが集い、鏡花と親睦を深めました。そしてその後、大正に始まり、昭和3年から鏡花逝去までの11年間毎月一回定例会が開催され、文人たちが集ったのが九九九会です。
これらはのちに鏡花の作品や遺品を世に残すため尽力することになる人たちと、鏡花が接近するきっかけとなりました。

バナードさんは鏡花会・九九九会に関して、鏡花は崇高なロマン主義のようなイメージを持たれがちだが、実際は堅苦しい改まった師弟関係ではない空間が思い浮かぶ人であるといいます。

穴倉さんも、鏡花の周りには、鏡花が好きで鏡花を素晴らしいと思う人々が自然と集まっていて、彼らは憧れてそばに行くけれど、鏡花はひとたび懐に入ると可愛らしい人であったのではとおっしゃっていました。

九九九会は今回の新春展でも深く取り上げた内容で、本間さんは「こうやって展示をすることによって、直接的なつながりではないんだけれども、鏡花であるとか、水上瀧太郎、あるいは久保田万太郎が持っていたかつての明治とか大将とか昭和とかのネットワークというか、人のふんわりしたやりとりみたいなものがモヤモヤっとものを通じて再体験できるような展示になるなと思って、すごく展示を作って面白かった」とおっしゃっていました。

それを受け、穴倉さんは、記念館で遺品や原稿を調べ始めたとき、人間が立ち上がってきたといいます。鏡花没後、いかに人々が遺品や原稿の保存のため奔走していたかをみていると、「作家が生まれて作品を書いていくっていうところに当然環境というものがあって、その環境というものに人間のつながりとか、そういったものがやはり無視できないものだな」と思ったそうです。

憧れと親しみが共存する方であったことが、遺されたものを通して伝わってくるようです💭

保存と継承

ものを見ていると、人間関係が鏡花にとって1番の財産だったのではと思うと穴倉さん。
そして寄贈・保存の過程にも注目されました。
まず住居の写真がこんなに綺麗に残っている作家はいないそう。寄贈に伴い失われるはずである空間が、写真によって記録されたことで、展示室に並んでいる遺品が泉家の中でどのように置かれ、どのように使われていたかを想像することができるようになったとおっしゃっていました。

今年生誕150年を迎える泉鏡花。泉鏡花記念館の学芸員である穴倉さんは、さらにこの次の生誕200年を見据えて、遺品の記録・保存に取り組まれるそう。また日本だけでなく海外にも広がっていくことを期待されます。

愛読者として鏡花のそばに集まってきた人々が作家やアーティストになっていき、またその人々によって生み出されたのものを通じて鏡花の愛読者が生まれ、そこからまたその人々が作家やアーティストになっていく。この営みが現在まで続いていると穴倉さんはいいます。
絵本や映像作品、そしてご自身が関わる英訳など、あらゆる媒介を通して人々が鏡花作品に迷い込んでいくとバナードさん。

泉鏡花の世界へ誘うきっかけを作っているお二人の鏡花愛に溢れるお話で、鏡花に少しずつ近づいていくようなトーク・イベントでした!さらに鏡花を深く知りたくなりました💭

本トーク・イベントとKeMCo新春展が泉鏡花の世界へと嵌まり込むきっかけとなったかたがいらっしゃれば嬉しいです✨

おわりに

このトーク・イベントは、KeMCoのyoutubeアカウントでアーカイブ配信中です💡
こちらでは紹介しきれなかったお話や質疑応答のコーナーもあるので、イベントに参加できなかったという方も、もう一度お話を聞きたいという方も、ぜひご覧ください💁🏻‍♀️

そしてトーク・イベントにご登壇くださった穴倉玉日さんが学芸員を務め、生誕150年に合わせて3月1日より再開館した泉鏡花記念館のHPも要チェックです💪🏻

文責:KeMiCo noeka